木曜日, 7月 31, 2008

精神の三段の変化

  • ニーチェのツァラトゥストラに、精神の三段の変化という箇所がある。
  • わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼子になるのか、ということ。
  • という部分だ。これは、私には創造的であるためにどのような段階を踏んでいくかをニーチェが教育しようとしているものと感じられる。「もっと、試練をください」とスポーツ選手がつらい単調な訓練に耐え技術を身に付けるように、向上心を持つものは、より重い荷物を自ら求め、その荷物を背負って駱駝のように砂漠を進む。
  • 駱駝は、荷物を背負い砂漠へ急ぐ。その砂漠の中で変化が起こる。自分の求めた砂漠で精神はその支配者となろうとするのだ。ここでニーチェは神を持ち出す。ものごとの一切の価値を体現する神は「汝なすべし」と命令する。ニーチェは、そのような神と対決せよとけしかける。これまでの価値を越える新しい創造のためには、何千年通用してきた価値を体現している神にさえ、屈服してはならない。自由を手にしなければ創造などできないのだ。自由を手に入れるためには、神聖な義務でさえあえて否定する必要がある。畏敬を旨とする精神には恐ろしい所業である。であるから獅子が必要なのだ。
  • さらに創造へ向かうためには、獅子でとどまってはいけない。外からの束縛から自由になったら、次には内面である。自分の意思が必要なのだ。幼子は無垢であり、新しい始まりである。自力で回転し、遊び、肯定する。聖なる肯定が自分の意志をもち、世界を失っていた者が自分の世界を獲得する。
  • ニーチェのこの「精神の三段の変化」を、偉人の人生に例えたり、スポーツ選手に例えたり、自分に関係のある人、あるいは自分に例えてみると面白い。自分の関心を持っている人、例えば、科学者であれば湯川秀樹やOliver Smithies。経営者であれば、本田宗一郎や松下幸之助。彼らの駱駝や獅子の時期、幼子のように見えるところを改めて、探ってみるのもいいかもしれない。しかし、最も楽しみなのは、自分は駱駝となってどんな重荷を求めてきたか、自分が獅子になるのはどんな束縛に対してか、幼子になってどんな自分の世界を持てるだろうかと考えてみることかもしれない。

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