日曜日, 9月 14, 2008

松岡正剛氏の講演を聴いて

  • 先週の木曜日は、ザ・シチズンズ・カレッジの松岡正剛氏の講演会を聴いた。氏の「世界と日本のまちがい」を読んで、世界史や日本史に流れている意味を知るには、氏のような人に教えてもらうのが一番と感じていた。その松岡氏の講演会があることを知って、出張の合間に聞くことにした。
  • 18:45開始の15分くらい前に会場に着いた。席は半分くらい埋まっていたが、まだ前の方にも空席があり、3列目にもぐり込むことができた。氏の話し方は、ゆっくりわかりやすく、そのまま文章にできるような無駄のないものであった。和歌や思想の話をふんだんに使い格調は高いが、決して堅苦しくない。時事的な話を交え聴衆の興味を持たせつつ、かつわかりやすい。しかし、言葉の綾をしっかり捉えて、理解しようと頭を回転させているとぼーとしていることはできない、濃い時間であった。しっかり100分くらい、それでも聞き足りないくらい内容があったと思う。
  • 氏の話の基調は、最近の日本がどうもうまくいっていない。それは、日本人が正統性(legitimacy)を失っているからではないか。日本人の見失っている「本来」を取り戻すためには、日本の方法を辿って、改めて日本人に伝えたい。そのような氏の情熱が感じられた。
  • 日本人が困惑している現状:柔道は国際化するためグローバルスタンダードを取り入れるとはしたものの、日本人誰もが審判の判定に納得できない。相撲では横綱の行動、麻薬問題と国際化することはけっこうだが、見て見ぬふりをしなければならないようなことがある。鬱憤がたまっていて、それが、家庭内に向いたり、秋葉原ではけ口を求めたりしている。
  • 日本は「面影」と「うつろい」の国である:「面影」の面とは外見、表面であり、顔であるが、そのような実際に存在するものだけでなく、影という言葉で表されるイメージ。イメージを伴った物理的存在、あるいは、かならずしも物理的な存在がなくとも、はっきりしたイメージがあるモノ。それが「面影」である。「うつろい」は影を曳航する。変化の中でイメージが残っていく。変化の中から「うつつ」現実のモノも生まれる。
  • 変化の中に影を引いていく「本来」、変化から生じる「本来」。松岡氏は、そういう日本の「本来」あり方、文化が生まれる方法を示して伝えたいと考えておられるのだと思った。
  • 氏の挙げられる日本文学や日本文化を完全には把握できていないけれども、氏の言葉で印象に残ったのが、「明治維新は夜明け前だったと思い直すべき」というところだ。
  • 江戸時代、鎖国のころは、中国の文化、漢字をしっかり日本流に取り込んでいた。日本の「本来」が表現されるところまで来ていた。和魂漢才ができていた。legitimacyが保たれていた。ところが、明治維新では、和魂洋才と言いながら、洋才である議院内閣制は取り入れたが、和魂である王政復古、立憲君主制は形だけであった。そこに、島崎藤村「夜明け前」の青山半蔵が幻滅したのであるが、それを今になっても解消できていないのではないか。海外から入ってきたものを、日本の「本来」に沿って読み替える力が弱っている。まだ、明治の頃の方が日本本来のものを海外から入ってきたものに読み替える試みが多かったと松岡氏は説く。内村鑑三はキリスト教徒であったが、日本の方法が生きていた。アメリカ人のボランティア精神に打たれるけれども彼らのあまりに功利的なところ、ボランティア活動をキャリアシートに書いて自慢するような精神を批判していた。
其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。

  • 国学者をキリストの福音に読み替えるのが内村の「方法」と聞いて改めてびっくりしたが、なるほど、これが日本人、日本の方法と理解した。
  • 講演にも少しでてきたが、資本主義も、アメリカ流を日本流に読み替えることが重要だと思った。その辺りについては、この前買った原丈人氏の「21世紀の国富論」を読んで考えてみたいと思った。

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