日曜日, 11月 11, 2007

日本の医学・生理学研究

  • BTJ/HEADLINE/NEWS The PRIME MAIL 第1060号の「The Opionion」では倉地先生(産業技術総合研究所・年齢軸生命工学研究センター長)がノーベル医学・生理学賞受賞者の米国と日本の差に触れて、彼我の研究支援体制の差について述べておられた。
  • まず数字から、米国NIHの研究費支援による研究でノーベル賞を受賞した研究者は既に100名を越えている(2004年時点で105名)のに対して、我国にはこの分野(生理学・医学・生命科学関連)はいまだ皆無。
  • この事実に対して、先生は日本でも受賞者がいる物理・化学分野と学問の状況について比較しておられる。論理思考・解析が相当可能な段階にまで発達している物理・化学とは異なり、生物・生命科学はいまだ混沌とした複雑系そのものであり、まだまだ解析・観察そのものが絶対的に不足し、現象が論理思考で十分説明できる段階には至っていない分野であるという指摘である。確かに、先生の指摘しておられるように、今でも生体構成物質/医学生物現象の解析法・方法論開発に多くのノーベル賞が与えられている。
  • このような現実を踏まえて、「生命科学・医学分野の研究で観られる日米間の違いは、主として創造的・独創的研究が持続的に遂行できる環境と支援体制が整っているか否か(予算額も含め)、の差に起因すると思う」という指摘はまったくポイントを正しくついた言葉である。
  • 続いて、「申請者が大物研究者だとか受賞歴等の肩書き、人間関係(弟子、友人である)等に左右さるべきではなく、あくまで独創性と創造性溢れる研究の内容・質(メリット)を審査判断基準の中心に明快に据えるべきである」と述べられ、米国のNIH等では、その通りの研究支援の仕方となっていると述べられる。審査でも当然そうあるべきという共通理解があるであろう。ところが、日本ではどうか。研究費の審査にかかわった私の乏しい経験から受けた印象では、大物研究者や受賞暦・肩書きがやはり影響を与える場合があると思う。細かい事例を挙げることはここではしないが、研究者ではなく、事務官がこれまでの経験等から、審査員を選んでいた場面に遭遇し仰天したことがある。主査の大物研究者と相談はしているだろうが、多岐にわたる専門分野から適切な委員を選ぶ際にそのような閉鎖的なやり方では十分な審査が保障されないのはいうまでもない。審査員の少なさ、過重な時間的負担がまず大きく、独創性とそれを生かした計画性を判断するために、ボランティア的活動に過度に依存した体制であることもある。一言付け加えると、競争的研究費改革とそれによる各公的研究費運営に対するプログラムオフィサーの手当てが進められ、大幅に改善されてきていることは世間に知られてよいことであると思う。
  • さらに続く先生の言葉はプログラムオフィサーら研究費の審査にあたる人たちへの今後の活動に対する叱咤激励と受け止めておきたい。「公的研究費申請審査プロセスは、健全な競争性(公平性/信頼性)と持続性、進歩を強く促すポジティブな性質を持っているべきで、単に研究費獲得成功万歳、不採択で落胆、審査と決定の詳細理由不明、に終わり、その繰り返しを行っておればよいものではない」
  • 昨日の日本精神の先進性に比べると、ノーベル賞を生み出すような創造性を支える精神は遅れているといわざるを得ない。政治、社会に対しては、知恵を発揮する日本人が、科学に対して、及び腰であるような気がしてならない。どうも、団塊の世代あたりは、人口が過剰で過当競争であるからなのかもしれないが、自分の取り分を確保することに注意が向けられ、「面白い考え方だからもっとやってみろ」というような、支援の気持ちを持つ「ゆとり」がなかったのではないか。これからは、日本人の生命科学・医学分野の業績もきっとあがってくるに違いないと思う。まず、審査員が肩書きや受賞暦等にビビらない、そういうものには鈍感な世代になることが必要かもしれない。

  • (夕食)ご飯、シュリンプシトラスサラダ(えび、ロメインレタス、エンダイブ、ベビーリーフ、マンゴー、アーリレッド)、カレービーフン、豆腐とほうれん草

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